わた☆あめ 脳内読書会

読書ブログです。ヨーロッパより帰国しました(コロナのばか~!)

漱石への愛が、すごい:『日本語が亡びるとき:英語の世紀の中で』

英語圏に一年半ほど暮らしたので英語は世界共通言語である前に暮らす場所の言葉で、しかし英語がこれほどにも世界共通言語でなければ、いずれ母国に帰る短期滞在者にすぎない自分が日々これほどまでに「英語を習得しなければ」という焦燥を感じることはなかっただろう。
例えば思いもかけず期間限定でフランスに暮らすことになったとして、フランス語ができずにその滞在が終わっても、そんなに気にしないんではないか。もちろんちょっとでも話せるようになれば素敵だけれども、それはいわば「お土産」のようなもので、だけど英語はそんな「お土産」のようには思えない。もうアングロ・サクソンだけの言語を超えてる。

 

英語が母国語の人はこの英語習得の苦労をしなくていいだから、そりゃ有利。ケンブリッジだってオックスフォードだって自分の研究「に」注力できる。
そういえばあったなぁ、「日本語が滅びるとき」って本が。今、すごく読みたい。電子書籍になってないのかー、日本に帰ったら真っ先に読もう。

 

で、読んで感じたことは、著者の近代日本文学への愛というか、なかでも漱石への愛、がすごい。
小泉八雲の後任になるほど英語ができたのにロンドンで気鬱になった漱石。ロンドンは外国人ばかりだったけれど、漱石の時代は東洋人なんてほとんどいなかっただろうから辛かっただろうなぁ。『三四郎』は私も大好きだ。あの五月の青空のようなお気楽な三四郎。その空にぷかぷかと浮かぶ雲を思わせる「ストレイ・シープ」という言葉。
しかし『三四郎』の隠れた主題が「広田先生のような知識人がなぜ<雑学のかたまり>にしかなり得ないのか」という問いなのだという指摘を本書で読んで考え込んでしまった。そのことの、何というか理不尽な悲しみに。

 

近代日本文学の「新しさ」は、現代文から地続きでその文章をダラダラと読んでいる私たち(すみません、「たち」って括ってしまって)はなかなか意識できない。近代日本文学は「西洋語」という<普遍語>をよく読みながらも、<普遍語>では書かず、日本語という<国語>で書き始められた。著者の日本近代文学への愛情と共感は、そうした成り立ちが英語と日本語という二重言語者である著者の生い立ちと重なるからなのだろう。

 

で著者は憤っている。なぜもっとこの「奇跡の」日本近代文学を日本人はもっと読まないのか。国語の教科書のあの薄さはどうしたことか。
熱心な「日本文学」の読者ではない私、恥じ入りながらも、でも言葉って変化していくものだからなぁ、今の日本文学だってそんなに捨てたものでもないのでは?と思ったり。

 

1億人をこえる母語話者を抱える日本語は少数言語ではないし、著者が言う「国語」でのニュアンスは翻訳したら失われてしまうのだから、日本語の小説が滅びることはないだろう。
しかし学問での言葉はどうだろう。著者がいう「滅びる」とは、日本語で「学問」をしなくなる、ということ。それは良し悪しの判断を超えていて、もしかしたらこのコロナ禍で今のグローバル化や英語化の流れに変化が生じるかもしれないけれど、当面は大きな川へと水は流れていく。
最終章の「英語教育と日本語教育」は英語だけでなく、いかに日本が日本語をもぞんざいに扱い損なってきたか、日本の英語の貧しさがいかに国益を損ねているのかを指摘している。とはいえ、どの国にだってそれなりの失策はある、とも思うのだけれど。

 

英語の世紀の中でも母国語で書く人々は減らない。第一章の「アイオワの青い空の下で<自分たちの言葉>で書く人々」は米国での国際創作プログラムに招かれた様々な国の作家たちが、英語の国のホテルの一室で、それぞれの母国語で言葉を紡ぐ様子が描かれている。英語も話せない彼らは国際交流もせずに(できずに)部屋に籠って<自分たちの言葉>に没頭する。さえないけれど、やっぱり愛おしい人々だ。

 

 

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

  • 作者:水村 美苗
  • 発売日: 2008/11/05
  • メディア: 単行本
 

 

『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』の感想、レビュー(あられさんの書評)【本が好き!】

 

 

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