わた☆あめ 脳内読書会

読書ブログです。ヨーロッパより帰国しました(コロナのばか~!)

人事制度を変える前に読んで欲しい:『日本社会のしくみ』

私が勤めていた会社は大手と言われる電気機器メーカーで、職場は現場寄りの部署だった。もう実際の製造は行っていなかったけれど、部門の人たちは製造の現場で物を作ってきた人ばかり。

だからこの本に出てくる日本の労働者の姿がとてもリアルに想像できる。物を製造していた会社が時代に合わせて変容していくさま、そうした中で現場労働者だった彼らの立場がどのようなものになっていったか。大学出の若い技術者に軽くあしらわれたり、パソコンの操作に四苦八苦したり。扶養給は廃止され、自らの生産性と賃金を常に厳しく天秤にかけられる。戦争時代の厚生年金の加入状況を問い合わせてきた人もいた。大企業に入れば定年まで安泰なんて言われたけれど、本当にそんなのどかな会社生活を送れた人はごくわずかで、例えば30年を価値観の大きな変化を被らずに過ごすことは、いつの時代もなかなかない難しいことなのではないだろうか。

 

日本に超えられない階級はないと言うけれど、学歴という一見、自分の努力で上昇することができるヒエラルキーがある。学歴偏重社会はどこか浅はかで幼稚なイメージがあるけれど、実は明治維新の当時から始まった根深いもの。現在の状況だけを憂いてもどうにも変えられないものなのだと感じた。

急遽始まった明治政府、行政の事務をこなすために高等教育者が必要で、帝大生は無試験で採用された。士族が没落した代わりに学歴が身分を分けるものとなり、その身分制度は政府、その後は民間に払い下げられた官製重工業、軍隊、戦後の大企業(官製重工業と地続き)と受け継がれていく。

日本の大企業が入社する新人に求めるものは、オールマイティーにこなせる適応能力であり、それを判断するものが出身校となった。学んだ内容は重視されず、その学校の入試を突破出来たいう潜在能力を重視した。

戦後の民主化と労働運動が組み合わさって、日本企業は終身雇用、年功賃金を導入していくが、この制度が長くは持たないことを1970年代には企業はわかっていた。一度、政府の有識者会議のような場で現在でいうところの「成果主義」への転換が提言されたが、賃金削減がその目的と疑った日本の働き手はそれを受け入れられず、慣行を変える機会を逃してしまう。

 

欧米の社会は転職が一般的とは言うけれど、それは職務で仕事に採用されるからで、職務を貫く横のつながりが企業を超えて存在している。日本の場合、採用時には従事する職務は明確にされずに、配属先で経験を積みながら仕事を身に着けていく。職務が重視されないので企業を横断した労働市場もなく、企業内での経験はそこでしか通用しない。

欧米は簡単に解雇されるというけれど、日本は明文化された技能や資格を、企業とは離れたところで、自分の展望や計画をもって作っていくことができないかった。それはどうだろう、やっぱりちょっとしんどい世界のような気がする。レイオフの心配にさらされたことがないからだろうか。

 

私が勤めていた会社でもしきりと成果主義やら年俸制やら、西欧の機動力のある人事慣習を取り入れようとしていたけれど、そもそも西欧の成果主義は就くためには高度な学位が必要で(博士号など)、就いたら熾烈な競争にさらされ、その結果、高額な給与を手に入れる上層職員に適応されていた制度で、その下に位置する下層職員はーー採用時に契約を交わした範囲での仕事をし(それから外れたことをさせると訴訟もの)、長時間労働はしなくて済むが給与はあるところで頭打ちとなるーー成果主義など求められない。日本のサラリーマンはあり方としてはこの下層職員に近いのだから、成果主義はなじまないもの。

 

日本社会がなぜこのような姿になっているのか知りたくて色々な本を読んで来たけれど、日本人の気質がこうした社会を作った、と考えても、あまり建設的な世界には辿り着かない気がする。これからは、日本という見方を離れて、純粋に制度や現象を勉強していくのが建設的だと思った。

 

 

 

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