山とキツネとご先祖様。ある喪失の物語:内山節『日本人はなぜキツネにだまされなくなったか』
わた:少し前に『山怪』という本を読んだんだけど、キツネやタヌキに騙されて命を落とした人もいたのね。
あめ:まさに『カチカチ山』。だまされるか、その裏をかくか。
わた:著者によると頻繁にキツネ(及びその他の山の生き物)にだまされていた日本人ですが、1965年頃を境に騙されなくなっていく。
あめ:それはどんな背景があるのか?という考察の物語です。
わた:物語という形容がふさわしい、なんとも奥行きのある考察でした。
あめ:結構早くにもっともらしい結論が掲示されるのよね。
わた:高度成長期での社会構造と人の意識の変化だね。人は山から下り、合理的になり、キツネにだまされなくなった。
あめ:でもそこから著者はさらに考えを進めて、では騙されていた時間、その歴史とはどんなものだったのか、と。
わた:確かに長々とだまされてきたのだからね。
あめ:著者の視点は、直線的に流れる歴史、基本的には歴史はよい方向に向かうという意識は、ヨーロッパのローカルな「物語」にすぎないのでは、というもの。
わた:時間は誰が見ても同じという時間もあれば、見る人によって変容する時間もある。
あめ:まさに物語そのもの。内面があるから人は物語を手放せないんだなぁ。
わた:我々の過ごす時間は良い未来という方向に向かっているのだという視線では、キツネにだまされていた話は牧歌的な微笑ましい話にすぎない。
あめ:しかしキツネにだまされてきた人々の歴史はある一方方向にだけ進むものではなく、循環し、引き継がれるもの。
わた:それは人々の共同体での暮らしの在り方そのもので、季節がめぐるように共同体も循環する。人々が囲まれる自然(じねん)もカミも死者もその前の季節を乗り越えようとはしない。どちらもあるがままにある。
村の神や仏の本体は、村の自然であり、同時に村のご先祖様であった。人知を超えた自然こそが神であり、その自然を村の自然へとつくり変え、今の村の暮らしを守っているご先祖様こそが神だったのである。
あめ:まさに柳田國男がいう「ご先祖」だね。
わた:日本人が神様って言われて思い浮かべるのって、連なる深い山並みがあって、その上を靄がゆっくり流れて、そしてその靄の向こう側の今はいなくなった人々が見える・・ってものじゃないのかな、って思うのよ。
あめ:本当に日本の神様は西洋の神とは違う・・・。
わた:山とご先祖様を感じながら循環する時間の中で日本人はキツネにだまされていた。
あめ:しかし循環する時間を感じられなくなり、キツネにだまされることもなくなった--。
わた:こういったことを考えると、グローバル・スタンダートとして提示されている世界が本当に自分たちに合うものなのか、どうか。
あめ:ここ最近感じる「世界を開きすぎてしまった」という思いを改めて感じました。
わた:グローバル・スタンダートっていうけどさ、ヨーロッパの人々は結構ローカルなんだよ。
あめ:まあ、そのローカルさを世界に輸出してるんだけどさ・・・。
わた:でも思っている以上にヨーロッパは実は世界を閉じていると思うな。開いているの、アングロ・サクソンの英米だけでは?
あめ:ヨーロッパの真似をしても、そもそも異質なんだからなれっこないし、実はヨーロッパ文明も自分たちの猿真似文明なんか尊敬もしない。
わた:独自の文化・価値観に自ら尊敬を払ってこそ、世界で尊重される。
あめ:ヨーロッパは蒐集が本能。珍しいものを愛でる。
わた:開国時のご先祖様が海外に出てふるさと・日本を震えるような思いで再認識したその気持ちが、今の時代の私たちにもわかる。
あめ:そんな愛しいキツネの物語でした。
本が好き!にも書評書きました。
参加しています。