わた☆あめ 脳内読書会

読書ブログです。ヨーロッパより帰国しました(コロナのばか~!)

日本人は「得か、損か」で動く:『(日本人)』

どこか日本人離れをしている著者が日本人について考察した本。
きっかけは、やはり東日本大震災。あの出来事の後、様々な日本人像が論じられた。それを一文で言うと「日本の被災者は世界を感動させ、日本の政府は国民を絶望させた」と著者は言う。ここに全く異なる二種類の日本人がいると。

 

日本がなぜこのような社会になっているのか、なぜこのような意思決定をするのか、とても気になって色々な本を読んでいるが、その中で気付いたことは「日本的といわれていることは東アジア、東南アジアでは共通的な振る舞いである」ということ。農耕社会は退出不可の社会で、共同体内での不満を抑え社会の安定を図るに意思決定は員一致の妥協の結果。例えばタイの社会では指導者として求められる資質は「妥協」だと言う。こうした退出不可の社会では議論は社会の緊張を高めるために嫌われる。退出自由の社会でないと、本来、議論は根付かないと著者は言う。

 

アメリカの政治学者によって行われた大規模なアンケート調査にて各国の国民の価値観が伝統的なものか/世俗的なものかを調べたところ、日本はずば抜けて世俗性が高いという結果が出た。忍耐強く伝統を重んじるというイメージがあったが、どうも日本人は「今が楽しければいい」「損得勘定で動く」傾向があるらしい。

 

この「世俗的」という姿は意外ではあるのだけれど、ひと呼吸おいて考えてみるととても納得がいく。著者曰く、戦後、戦争を嫌い平和を愛する国民となったのは「戦争するのは損だ」と敗戦で骨身に染みたから。仏教の教えも仏に至る過程は省略されて現世利益に重きが置かれる。

 

10月にはハロウィンの仮装に興じ、12月にはクリスマスをケーキとチキンで祝い、その6日後にはおせち料理を食べて初詣。これを世俗的と言わずして何と言おうか。日本人が思う以上に世界は実は保守的なのだ。キリスト教国ではクリスマスは地下鉄すら止まる。日本は元旦からお店が開いている。世俗的で楽しいことが大好きなのだ。

 

原発事故の際、現場に乗り込んで怒鳴り散らした政治家の姿はまだ記憶に新しい。あの振る舞いはずいぶんと批判を浴びたけれど、著者は「原子力安全委員会や原子力安全・保全院が機能していなかった中、怒鳴り散らす政治家がいなければ未曾有の事態に立ち向かえなかったのでは?」と言う。

 

原子力損害賠償法では事業会社の原子力損害に対する無過失(無限)責任を課している。指導者に呪術的な役割が期待された農耕ムラ社会ではその責任は無制限で、合意形成の積み上げで意思決定をする社会は契約の概念もなく、無限責任を課す社会で責任を負わされた場合はその損害はあまりに大きく、誰もが責任を逃れようとする。

 

先日、某大学のYouTubeを見ていたら「母系社会が普通で、西欧のような父系社会が例外的」と話されていてとても納得した。

 

それぞれの地域が独自の文化・風習・思考を持つのは当然だ。しかし現在は国境を超えて市場が広がり異文化が同じ市場内で出会う。そうした多文化の場ではローカル・ルールは通用しない。社会成立の初期から多文化にもまれてきた移民国家・アメリカでのルールが自然とグローバル・ルールとなる。加えてアメリカには①イギリスからの独立、②第二次世界大戦の勝利、③冷戦の終焉という成功体験の裏付けがある。

 

グローバルの波に洗われなければ村の寄り合い的な意思決定は共同体の同意を得続けたのだろうか。戦後の日本社会は生まれ変わったわけではなく、国家総動員体制がそのまま継続し自由経済のふりをしているだけ、という考察も読んで、唖然、しかし深く納得。
私自身は歴史的に見ても日本人は優れた民族と思うのだが、グローバル・ルールの中では苦戦を強いられる。
他者がいない日本がグローバル・ルールを理解するのは、なかなか困難なことだと思う。

 

 

(日本人)

(日本人)

  • 作者:橘玲
  • 発売日: 2014/08/07
  • メディア: Kindle版
 

 

『(日本人)』の感想、レビュー(あられさんの書評)【本が好き!】

 

 

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