わた☆あめ 脳内読書会

読書ブログです。ヨーロッパより帰国しました(コロナのばか~!)

『誰が袖屏風』って知ってますか:ART in LIFE, LIFE and BEAUTY展(サントリー美術館)

サントリー美術館『ART in LIFE, LIFE and BEAUTY展』に行ってきました。

ここで初めて『誰が袖屏風』というものを知りました。

 

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(画像はサントリー美術館よりお借りしました)

 

www.suntory.co.jp

 

「誰が袖」とは古今集の「色よりも香こそあはれとおもほゆれ誰が袖ふれし宿の梅そも」という歌からきているそうですが、誰もいない空間に誰かが脱いでかけたであろう衣や装飾品がかけられているという図案です。

この図案はこの屏風のみではなくてひとつの絵の形式(ジャンル)になっているそうです。

この「不在を愛でる」という感覚、昔の人も持っていたんですね。

現代の人が廃墟を愛でたりするのと同じ。去っていったものに思いを馳せる。

 

とても心打たれたので、読書ではありませんが記事にしてみました。

 

美術館に近接している不室屋カフェでは生麩を使った食事やスイーツが食べられます。

加賀麩とりどり膳は生麩のデザートまでついて2090円。とってもお得です。

「資格」ではなく「場」の共有によるタテ社会--そうした社会であれば日本でなくても同調圧力や自粛警察は生まれる:『タテ社会の人間関係』

社会を成り立たせる構造として「資格」による社会と「場」による社会があるそうです。

 

資格による社会は横(同業者)のつながりが強く資格によって集団を移動することができます。
一方、場による社会は目に見える枠がないため、実質は烏合の衆です。組織を保つためにはその内部で結束を強化する必要があります。そのため構成員の相互接触が高まり、エモーショナルな関係が重視されます。

 

いう間でもないことですが、日本は後者の場による社会です。
資格と言った明確な基準がないため、絶えず「ウチ」「ヨソ」を意識。そうしないとずるずると枠がほどけ、社会構造は溶解してしまいます。
場による社会というのは日本に限ったものではないようですが、世界でも驚異的な日本の単一性がこの場による結束を強固でかつ息苦しいものにしているようです。

 

この「場」から社会構造を考えるというのはとても分かりやすく、今まで封建的だとか前近代的だと言われてきた日本での出来事のその理由がよく理解できます。例えば職業ではなく場である「会社」を重視したり、仕事ではなくて「人を抱える(雇う)」という意識が強かったりといったことの必然性が。
令和の今では、もっと資格で結びつく社会になっているでしょうか。少なくとも昭和・平成を振り返って見ると、この場による組織形成という見方はぴったり現実に合っていたように思います。

 

場による社会はその組織を超えた横の連携が育たず(横に連携すればもはや場は保てなくなってしまいます)、その代わりに上下関係に基づく社会で、場・組織との接触時間が長いことは重要かつ敬意を払われることで、年功序列なあり方に繋がります。
こうした中では場(会社)を移ることは自分の築いた資産をチャラにすることであり、場の結束を損ねることであり、個人にとっては利益よりも損失の方が大きく感じられたのでした。愛社精神ではなく。

 

また横の連携がないため、社会での分業が進まず、また組織内部は場にいる時間の長さで組織内部での立場が決まるため、能力による競争というものが起こりません。その代わり競争は組織体組織で発生し、同じようなことを生業としている企業が乱立、限られた市場の中でそれぞれしのぎを削ります。

 

常に「ウチ」と「ヨソ」を意識しており、自分達の組織が安定して機能している時は「ヨソ者」にはひどく冷たいという特徴も見られます。日本人が初対面の人との会話が苦手なのは、シャイという性格もあるのでしょうか、この「ウチ」しか見ないという行動様式によるものが大きいのではないでしょうか。

 

こうした社会はもちろん欠点ばかりではなく、内部の締め付けが厳しいため統制は取れているし、構成員は安定しているし、人の動員力にも優れています。
またリーダーと部下の関係ではエモーショナルな絆を重視しているので、子が親を慕うように部下は上司を慕い、親が子を思うように上司が部下に温情をかける。
日本の感情的な社会をそうした観点から見てみると、ちょっといじましいというか。積極的にその輪に入ろうとは思わないけど・・・。

 

場による社会ははっきりとした規律がないため構成員は高い緊張を強いられ、その緊張を緩和させるリラクゼーションとして内輪での無礼講があります。楽しいのは理解できるけど、それに公共の電波を使って欲しくないです。

 

日本人は感情をあまり現わさないといいますが、社会としては実に感情を重視し、人間的な繋がりに価値観を置いています。そのため、宗教的(規律があって絶対的)な社会ではなく、「道徳的」な社会になる。(でた! 道徳!)

 

他にも「日本の民主主義は『オレだって』という能力平等主義」などといった面白い指摘がたくさんあったのですが、「場」による社会構造という見方で今まで謎に思っていた現象がこんなにもよく理解できるなんて、かなり目を開かれた一冊です。

 

社会構造といったものは言語と同じように社会に深く根差しているものですから、工業化や西欧化といったことで簡単に変化するものではありません。
商売のネタになる市場が枯渇しつつある今、今後日本は「場」による社会構造で、どうやって「資格」による社会と共存していくのか。どういったところを、どのように強みにし、どういったところを変えていくべきなのか(または変えられる点はどこなのか)、意識的に考えるべきなのでしょう。

 

 

タテ社会の人間関係 単一社会の理論 (講談社現代新書)
 

 

『タテ社会の人間関係』の感想、レビュー(あられさんの書評)【本が好き!】

 

 

 

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日本も橋本さんも揺れに揺れた:『橋本治という立ち止まり方』

2010年、橋本治さんは顕微鏡的多発血管炎という難病で入院します。当初は一ヶ月ほどで済むと思われていた入院は、結局四カ月にも及びました。
自分もじーさんだけど病院はじーさん・ばーさんばかり、と好奇心をもって病院生活を送った橋本さんですが、やはり四カ月もの入院生活で体力が落ちたようで、退院後の文章はどこか元気がない。自分でもがっくりきて自信喪失というか、ぐらぐらしている感じが伝わってきます。

 

そんな中で東日本大震災が起こり、体力がないと驚いたり不安になったりすることもできない、と橋本さんは書いています。
この本の最終章は2011年に書かれたエッセイですが、橋本さんにしては珍しく、政治に対しての怒りを結構直接的に吐露しています。
橋本さんの「分からないものを分からないままに語る」という姿勢は、とても気力・体力が必要なことだったんだなぁと気づかされました。のんきさは充実した気力から生まれるのですね。

 

入院中に「近代文学の文豪の中で一番読まれなくなった」島崎藤村の『夜明け前』を読み、自分がどうして「幕末物」がが好きでないのかよくわかったと橋本さんは言います。あの騒々しく、空回りして噛み合わない激論、その末のテロリズム、その「騒々しさ」はしかし山の中の木曽路の村には影響を及ぼしません。中山道を旅人が通り過ぎていくように『夜明け前』でも「幕末の騒々しさ」は通り過ぎていく。

 

この本には2008年(リーマン・ショック)、2009年(民主党への政権交代)、2010年(難病発症)、2011年(東日本大震災)に書かれたエッセイがおさめられています。日本も橋本さんも揺れに揺れていました。

 

 

橋本治という立ち止まり方 on the street where you live

橋本治という立ち止まり方 on the street where you live

  • 作者:橋本 治
  • 発売日: 2012/12/25
  • メディア: Kindle版
 

 

『橋本治という立ち止まり方 on the street where you live』の感想、レビュー(あられさんの書評)【本が好き!】

 

 

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やっぱり福沢諭吉は偉かった:『国家を考えてみよう』

よく理解できないことがあって迷っている時、つい橋本治さんの本を手に取ってしまいます。(もう新作が読めないとは本当に残念です)
読むと「すっきり」することはなく、橋本さん特有の語り口であっちへやられこっちへやられ、読み終わった時には「どういうこと?」と思うのですが、「すっきりすることは危険だよ」ということなのかもしれません。

 

橋本さんの『双調平家物語』は中断をはさみながら何年も読んでいますが、平家物語なのに中国の王朝から物語が始まるのには驚きました。でも読んでいくと日本の王朝がどういった性質のものなのか中国との対比で浮き彫りになり理解が深まるように感じます。

 

この本も「『考える』ってあるけど、きっとよく分からないものだぞ」と思いながら読み始めました。

 

国家とは「国に家がついたもの」と橋本さんは指摘します。
日本はイエ社会とは言いますが、国も「イエ」として考えているわけです。なるほど、そう指摘されるまで気が付きませんでした。それほどまでに「家」は当然のものとなっているわけですね。

 

橋本さんは「国家を考えると色々とめんどうなことになる」と言います。
国家はイエなので家長がいるはずです。日本の家長とはだれでしょう。家長は家の所有者です。橋本さんがやっかいだというのはこの国家が家長のものになる、ということです(たぶん)。

 

そして同じように感じて国家という言葉を使わなかったのが福沢諭吉だと言うのです。
福沢諭吉は一万円のお札の顔になっているけれど、勉強して立身出世してお金持ちになりなさいというようなことを言っているわけではなく、
「『海外列強に日本は軽くみられているのではないか』と心配するより、まずは勉強しなさい」
「みなが勉強して賢くなれば政府は政治もしやすくなるし、人民も政府の支配に苦しむことはない」
ということを言っている。

 

そして何よりも福沢諭吉が告げたかったのは、まだ議会もなく人々が選任した政府があるわけでもない時代では<人民は必ずこの方を守るべしと、固く約束したるものなり>とある約束も必ずしも守る必要はないのだ、<人民と政府との間柄は、もと同一体にてその職を区分し、政府は人民の名代なりて>が実現されていなければ、と「暗に」政府に脅しをかけている。

 

やっぱり福沢諭吉は偉い人だ。
一万円の顔にならない方がよかったんじゃないかな。

 

 

国家を考えてみよう (ちくまプリマー新書)

国家を考えてみよう (ちくまプリマー新書)

  • 作者:橋本治
  • 発売日: 2016/06/10
  • メディア: Kindle版
 

 

『国家を考えてみよう』の感想、レビュー(あられさんの書評)【本が好き!】

 

 

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「おろんくち」、「がらんど」、「まだ息がある」---。 認知症の老婆が夕方になると口にする言葉。その言葉を辿っていくと、一本の恐ろしい木に辿り着いた:『フォークロアの鍵』

旅は紙の上に書いた計画通りには行かない。いくら綿密に計画しても当日の体調や気候によって計画は結構変わってしまう。
人の記憶も紙に書かれたような「順序立って分かりやすいもの」にはならない。話し手が「あれ、おかしいなぁ」と口にしながら話す記憶の方が、その「おかしいなぁ」という感覚を含めて「記憶していることだ」と感じる。

 

この物語は認知症を患っている老人たちが暮らすホームが舞台。口頭伝承を研究する民俗学者の卵・千夏は自身の研究のためにホームでの聞き取りを始めた。ある夕暮れ、「くノ一」とあだ名される美しい老女・ルリ子が口にした「むかし、むかし、あるところに」という呟きを偶然、耳にする。
彼女は意思の疎通が難しい段階の認知症を患っていて、なぜか夕方になると決まってホームを脱走しようとするのだ。だから「くノ一」。
このホームには、毎日20円を郵便局に預ける「郵便屋」や大陸からの電波に攻撃されていると思い込んでいる「電波塔」などなど、かなり個性的な老人たちが暮らしている。
個性的と言ったけれど、そもそも人はこんな風に個性的なのではないだろうか。社会的な振る舞いが身に着く前の幼児はかなり独創的な存在だ。

 

92歳になるルリ子は身寄りもなく、もはや他人とのやりとりは出来ないのだけど、夕方にはホームを脱走するために警報器のスイッチを切るという「正気さ」が一瞬戻る。
「・・・・あるところに、ちっちゃい、糸切り」
「お、おろんくち」

 

脱走を失敗するルリ子が口にする言葉に何か尋常でないものを感じる千夏。
目の前で何かを抜き差しする仕草が蚕の選別だと老人たちから教えられた彼女は「おろんくち」を求めて山梨を訪れる。ネットの掲示板で知り合った少年が「むかし、山梨の祖父母のところでそんな言葉が出てくる昔話を聞いた」と言ったからだ。

 

「がらんどを見たのか」「がらんどはまだ息がある」
一瞬戻る本来のルリ子が必死に訴えるものは。彼女が夕方になるとホームを抜け出そうとする理由とは---。

 

著者の民俗学的な話はもう「おどろおどろしく」て、出たよ!この感じ!と一晩で読みました。
昔話の語りの向こう側には、実は現在進行形の凶行が潜んでいて・・・ルリ子が何度を脱走を試みるその意図が明らかになると、その分け隔てのない必死さに胸が打たれる。

 

ルリ子は「がらんど」に何を見たのか。「がらんど」の中にいたものは、本当に「まだ息があった」のか、それを見たルリ子は、その後どうしたのだろうかーー。

そうした「事実」はすべてルリ子の「痴呆のためにもはや語ることができない」記憶の中にある。しかし「語ることができない」のは果たして痴呆のためだけによるものなのだろうか。人の記憶とは「その人が知るままには語れない」ものなのではないだろうか。予定通りにはいかない旅のように。

 

 あまり話題にならないけれど、川瀬さんは優れた物語作家だ。

 

フォークロアの鍵 (講談社文庫)

フォークロアの鍵 (講談社文庫)

  • 作者:川瀬 七緒
  • 発売日: 2019/10/16
  • メディア: 文庫
 

 

『フォークロアの鍵』の感想、レビュー(あられさんの書評)【本が好き!】

 

 

 

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日本人は「得か、損か」で動く:『(日本人)』

どこか日本人離れをしている著者が日本人について考察した本。
きっかけは、やはり東日本大震災。あの出来事の後、様々な日本人像が論じられた。それを一文で言うと「日本の被災者は世界を感動させ、日本の政府は国民を絶望させた」と著者は言う。ここに全く異なる二種類の日本人がいると。

 

日本がなぜこのような社会になっているのか、なぜこのような意思決定をするのか、とても気になって色々な本を読んでいるが、その中で気付いたことは「日本的といわれていることは東アジア、東南アジアでは共通的な振る舞いである」ということ。農耕社会は退出不可の社会で、共同体内での不満を抑え社会の安定を図るに意思決定は員一致の妥協の結果。例えばタイの社会では指導者として求められる資質は「妥協」だと言う。こうした退出不可の社会では議論は社会の緊張を高めるために嫌われる。退出自由の社会でないと、本来、議論は根付かないと著者は言う。

 

アメリカの政治学者によって行われた大規模なアンケート調査にて各国の国民の価値観が伝統的なものか/世俗的なものかを調べたところ、日本はずば抜けて世俗性が高いという結果が出た。忍耐強く伝統を重んじるというイメージがあったが、どうも日本人は「今が楽しければいい」「損得勘定で動く」傾向があるらしい。

 

この「世俗的」という姿は意外ではあるのだけれど、ひと呼吸おいて考えてみるととても納得がいく。著者曰く、戦後、戦争を嫌い平和を愛する国民となったのは「戦争するのは損だ」と敗戦で骨身に染みたから。仏教の教えも仏に至る過程は省略されて現世利益に重きが置かれる。

 

10月にはハロウィンの仮装に興じ、12月にはクリスマスをケーキとチキンで祝い、その6日後にはおせち料理を食べて初詣。これを世俗的と言わずして何と言おうか。日本人が思う以上に世界は実は保守的なのだ。キリスト教国ではクリスマスは地下鉄すら止まる。日本は元旦からお店が開いている。世俗的で楽しいことが大好きなのだ。

 

原発事故の際、現場に乗り込んで怒鳴り散らした政治家の姿はまだ記憶に新しい。あの振る舞いはずいぶんと批判を浴びたけれど、著者は「原子力安全委員会や原子力安全・保全院が機能していなかった中、怒鳴り散らす政治家がいなければ未曾有の事態に立ち向かえなかったのでは?」と言う。

 

原子力損害賠償法では事業会社の原子力損害に対する無過失(無限)責任を課している。指導者に呪術的な役割が期待された農耕ムラ社会ではその責任は無制限で、合意形成の積み上げで意思決定をする社会は契約の概念もなく、無限責任を課す社会で責任を負わされた場合はその損害はあまりに大きく、誰もが責任を逃れようとする。

 

先日、某大学のYouTubeを見ていたら「母系社会が普通で、西欧のような父系社会が例外的」と話されていてとても納得した。

 

それぞれの地域が独自の文化・風習・思考を持つのは当然だ。しかし現在は国境を超えて市場が広がり異文化が同じ市場内で出会う。そうした多文化の場ではローカル・ルールは通用しない。社会成立の初期から多文化にもまれてきた移民国家・アメリカでのルールが自然とグローバル・ルールとなる。加えてアメリカには①イギリスからの独立、②第二次世界大戦の勝利、③冷戦の終焉という成功体験の裏付けがある。

 

グローバルの波に洗われなければ村の寄り合い的な意思決定は共同体の同意を得続けたのだろうか。戦後の日本社会は生まれ変わったわけではなく、国家総動員体制がそのまま継続し自由経済のふりをしているだけ、という考察も読んで、唖然、しかし深く納得。
私自身は歴史的に見ても日本人は優れた民族と思うのだが、グローバル・ルールの中では苦戦を強いられる。
他者がいない日本がグローバル・ルールを理解するのは、なかなか困難なことだと思う。

 

 

(日本人)

(日本人)

  • 作者:橘玲
  • 発売日: 2014/08/07
  • メディア: Kindle版
 

 

『(日本人)』の感想、レビュー(あられさんの書評)【本が好き!】

 

 

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オーストラリアで生きることを選んだ少年はMasatoからMattになった:『Matt』

『Masato』の続編が『Matt』であると知って「真人、オーストラリアでうまくやっているんだな」と嬉しかった。
前作『Masato』ではオーストラリアで脱サラして新たに商売をするという父親と共にオーストラリアに残ることを選んだ真人。オーストラリアを、英語を選んだ真人に母親は「この国にあなたをとられた」と泣き日本へ帰る。
その母親から「まあくん」と呼ばれていた真人は今では自らMattと名乗るようになっている。
真人がオーストラリアに残ることを選んだのは父親の肩を持ったわけではもちろんなくて、オーストラリアの文化、そこで出会った人々、特に友人達と離れがたく日本ではなくオーストラリアで中学へ進むことを選んだ。

 

しかし物語はほろ苦い。
意気揚々と始めた父親の商売は軌道に乗らずに破綻、酒に逃げ半ばアル中になっている。
日本の会社を辞めてオーストラリアで商売をしていくことを選んだのに、最後の最後に日本人の伝手を使って仕事が何とかつながった時、「やっぱり頼りになるのは日本人だよなぁ」という言葉を口にして息子を激高させる。
その一方でオーストラリア女性と深い仲になり、挙句の果てには日本にいる真人の母と離婚すると言い出す。おやじ、何をしているのだ・・・。母と娘は日本、父親と息子はオーストラリア。距離だけが家族を隔てていたのにその分断がいよいよ決定的なものとなってしまう。
真人の友人達にも変化が訪れている。サッカーの才能に恵まれプロを目指していた親友ジェイクは「そろそろプランAのほかに、ブランBも考えておくべきなのかもな」と言い出し、そのプランBが年上のガールフレンドとの結婚だったりする。クローゼットの中に今でもテディベアを大切にしまってあるジェイクは三人の姉たちに溺愛されているからな・・・。そうくるか!と思いながらも妙に納得してしまったよ。

 

本作『Matt』で、真人はもう一人のMattと出会う。金髪、碧眼のMattは真人がぞっこんのガールフレンド・パリスと同様、典型的なオーストラリア人だ。
そのMattは太平洋戦争で日本と戦った祖父を持ち、履修が一緒のドラマのクラスで何かと真人に嫌がらせをする。それでも共に顧問のキャンベル先生の深い洞察に溢れた指導を受けながら、演じるというレッスンを通じて自分ではない他人への理解を深めていく。ジェイクといい、このMattといい、家族を、特に年老いたものたちを慈しむ姿勢は鮮やかな驚きを感じる。Mattの日本人嫌いは祖父への深い愛情によるものなのだ。ジェイクはそれを「じいさんから何かの病気をもらったようなもの」と言うけれど。

 

母国、移住先と複数の文化の中で育つ子供たちをサードカルチャーキッズというそうです。
華々しいと思われがちなサードカルチャーキッズの懸命な「もがき」が著者の柔らかく誠実な文章で描かれる。
異文化の海でもがきながらも、複合的な自己の在りかた、その曖昧さ、答えのなさを受け入れて異文化の海を浮上していく子供たちの姿は、本当に逞しくて眩しい。

 

オーストラリアの学校生活--多くの留学生を受け入れ、ハウスごとに点数を競っていく文化(ハリー・ポッターと同じだ)、どこか緩やかで自由な授業の履修の仕方、日本では馴染みのない授業科目など--が生き生きと描かれているのも本シリーズの大きな魅力の一つ。

 

 

Matt

Matt

  • 作者:岩城 けい
  • 発売日: 2018/10/05
  • メディア: 単行本
 

 

こちらもぜひ。

Masato (集英社文庫)

Masato (集英社文庫)

  • 作者:岩城 けい
  • 発売日: 2017/10/20
  • メディア: 文庫
 

 

『Matt (単行本)』の感想、レビュー(あられさんの書評)【本が好き!】

 

 

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